「Kiss×Kiss」

 四つ目のゲームの休憩時間。いつものように喫茶室を訪れた戦人は、そこに誰も居ない事を確認すると、その奥にあるサンルームまで足を伸ばした。サンルームまで行ったとて、この空間では外の景色など無い訳だが、それでも窓に覆われたその場所なら多少は気分も開放的になるのではなかろうか、と。
「……お」
 そこで戦人は足を止める。
 サンルームに備え付けられたソファの上で、無防備に横になりすやすやと寝息を立てている魔女の姿があった。
「ぐーすか寝てやがる……」
 呆れたように呟き、戦人は溜息をついた。この魔女に対して、色々と複雑な想いを抱えている自分がただの馬鹿なのではないかと思えてきてしまう。敵である戦人の前で、こうして堂々と寝ている事が出来るなど。そもそも自分は彼女にとって、敵として見られていないのではないだろうか、と。
 戦人はその場にしゃがみこんだ。眠るベアトリーチェと目線の高さを合わせる。
「…………」
 規則的な寝息を立てるベアトリーチェに、起きる気配は無い。折角なので、少し観察させて貰おう、などと戦人は考えた。
 彼女の整った顔立ちは、あの祖父を狂うほどに魅了させたものだ。
 金色の睫毛はとても長い。逆さ睫毛になったら大変そうだ、と、どうでもいい事を思う。すやすやと実に気持ち良さそうに寝入る魔女は、本当にさっぱり起きる様子が無かった。
「……ったく。人の気持ちも知らねぇで」
 思わず戦人は一人ごちた。
 直後、自らの言葉に首を傾げる。


 ――人の気持ちも知らないで。


 はて、どういう意味だろうか。無意識下に出てしまったそんな台詞の意味を、戦人自身でさえも理解出来なかった。
 人の気持ちも何も、そもそも自分がベアトリーチェに対して抱く気持ちは敵意のみの筈だ。他に必要な感情などありはしない。そして恐らく、この魔女もその事など分かっている筈なのだ。ならば、知らないで、も何も無い。
「…………」
 よく分からない。だが、少しずつ複雑な感情を抱き始めている自分を、戦人は認めたくはなかった。その複雑な感情の正体自体がまだ分かっていないけれど。
「本当に……気持ちよさそうに寝やがって」
 忌々しく思うべき魔女の寝顔は、何処か子供のようにあどけないもので、それを見ているとつい毒気が抜かれてしまう。
 ――こうして黙っていれば可愛くない事もないのに。
 少しずつ、少しずつ、戦人の顔が近付いていく。別に何をしようという訳ではない。ただ、何故だか引き寄せられるようになってしまう己を、戦人は止められなかった。
「……起きないお前が悪いんだからな」


 そして、戦人の唇が彼女の額に――触れた。


「……ッ!」
 次の瞬間、はっと我に返ったように戦人は飛び退いた。今、己のした事が、自分自身でさえも理解出来ないと言うように。
「な、何をやってんだ、俺は……ッ」
 髪と同じ燃えるような赤にその頬を染めた戦人は、次に慌てて周囲を見渡した。誰も居ない事は分かっているが、それでも悪趣味な悪魔の一匹や二匹が見ていてもおかしくはないからだ。
 本当に誰も居ないという事を確認すると、戦人はそのまま踵を返し、さっと立ち去った。こんな訳の分からない感情を抱えて、これ以上この魔女と二人きりではいられなかった。


 誰も居なくなった部屋で、魔女はぱちりと目を開ける。
「…………」
 ベアトリーチェは自らの額にそっと指先を当てた。と同時に、かぁっと頬が一気に紅潮していく。
「適当な所で起きてやる筈だったのに……」


 * * *


「ベアト……寝てるのか?」


 サンルームのソファで仰向けになって寝入る妻を見つけ、領主である彼はマントを翻しながらそっと彼女の傍へ歩み寄った。幸せそうな顔で目を瞑っているベアトリーチェを暫く眺めた後、戦人は彼女の額に静かにキスを落とす。
「……寝込みを襲うとは卑怯ではないか?」
 その瞬間、寝ていた筈のベアトリーチェから窘めるような声が聞こえ、戦人は薄く苦笑した。
「何だよ、起きてるならそう言えよ」
 寝ているような時でもなければ、恥ずかしくてキスなんか出来るか。
 ぶっきらぼうにそう続ける戦人は、まだ夫婦という関係に慣れていないのかも知れない。もっとも、それはベアトリーチェの方も似たようなものではあったのだが。
 戦人に手を引かれ、ベアトリーチェはゆっくりと身体を起こす。占領されていたソファが空くと、戦人は妻の隣に腰を下ろした。夫が座り易いようにとドレスを少し纏めて寄せながら、ベアトリーチェはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば戦人。そなた、昔……」
「ん?」
「第四のゲームの最中に、今と同じような事をしたであろう?」
「えっ?」


 ――ギクリ。


 という擬音が綺麗に聞こえてきてしまうほど、戦人は表情を引き攣らせた。
 何故、知っているのだろうか。
 それは既にかなり遠い過去の話だった。今こうして指摘されるまで、戦人自身も忘れかけていた事だ。あの時、何となく眠るベアトリーチェに引き寄せられるようにしてキスをしてしまった事は、誰も知らない、戦人一人だけの秘密だった筈なのに。
「なっ……なん……何で、お前……」
 あからさまに動揺して上擦った声をあげる戦人に、ベアトリーチェはズイと顔を近付けた。
「あの時も、妾が起きていないと思ったか?」
 にやりと口元を弧に歪める妻を見て、戦人は息を呑んだ後、やられたといったように肩を竦めた。どうやらこの魔女の方が、やはり一枚上手のようだ。
「……仕方ないだろ。お前があんまり気持ち良さそうに寝てたもんだからよ」
「気持ち良さそうに寝ていたら、そなたは誰にでも口付けをするのか?」
「馬鹿、んな訳ねぇだろ」
「じゃあ、妾だからか?」
「…………」
 そう言われると返答に窮する。彼女の言う事はその通りで何も間違っていないのだが、それを素直に認めるのは何だか無性に癪だ。
 不貞腐れた様子で口を噤んだ夫にベアトリーチェは声をあげて笑った。何故戦人が返事をしないのか、彼女はその理由をきちんと分かっている。だからこそ戦人は益々渋い顔をする。
 ――だが。
 まあそれも悪くはない。何故だかそんな不思議な充足感を覚えつつ、戦人は爆笑している妻の顔を見て、小さく息をつくのだった。