「Secret Garden of the golden witch」



 多くの薔薇が咲き乱れる美しき庭園。
 人気はない。けれど花々はそんなことはかまわず、限りある美を見事に体現している。
 時折風に揺られた葉ずれの音がするほかは静寂が支配するこの庭に一箇所だけ物音がする場所があった。
 ちょうど庭園の中央に位置するこじんまりとした東屋。
 少人数用の椅子とテーブルが配置されており、薔薇を愛でるためにはうってつけと言えるだろう。
 ただし──現在東屋にいる者達は薔薇を見ていない。
 何故なら、彼らにはそんな心の余裕などまったくなかったからだ。
 人影はふたり。
 ひとりは美しい女性。
 艶やかな美貌はまさに薔薇もかくやというばかりであり、腰まである金の髪は緩やかなウエーブを描いている。
 古風なドレスを身に纏い、椅子に座っている彼女の名はベアトリーチェと言う。
 “黄金の魔女”、または“無限の魔女”など様々な称号を持つ千年を生きた魔女だ。
 その性質は凶悪にして残忍。これまで幾度となく残酷な惨劇を嘲笑いながら自らその手で引き起こしてきた。
 だが、今の彼女からはそのような面影は微塵も感じられない。
 生気のない表情。光を失った瞳。
 身動きひとつせず固まっている姿はまるで人形のようだ。
 そんな彼女の傍らにはある人物がいた。
 人影のもうひとり、若い男性だ。
 体躯に恵まれた長身であるが、その顔にはまだ少年のような幼さが残っている。おそらくまだかろうじて未成年であるといったところだろうか。
 彼は女性の傍らに腰掛けていたが、突然立ち上がり大きく伸びをする。
「く、ううぅぅ〜〜! ……ぷはあッ!」
 短く息を吐き、瞬きを何度も繰り返す。
 更には腕をグルグル回してみたり屈伸運動を始めたりと、さながら檻に入れられた動物のごとく落ち着きなく動き回る。
 青年の名は右代宮戦人と言った。

「……はあ」
 戦人は立ち止まり、ため息を吐いた。
 歩き続けることにとくに意味はない。つまるところ、ただの時間つぶしだ。
 まったく無駄な行為、わかっていながらもやってしまうのには理由がある。
 ……息が詰まるような状況に耐えられなかったからだ。
 一番つらいのは彼女だというのに我ながら情けないと戦人は自嘲気味に笑った。
 ──その時だった。
 ふと、風を感じた。
 すうっと何かが横を通り抜けたと思いきや、音もなく現れるひとりの女性。
「戦人君、ベアト。ただいま帰りました」
 彼女は戦人へと優雅な動作で会釈する。
「よ、よう、ワルギリア。……お疲れ」
 戦人は女性──魔女ワルギリアを見て一瞬だけぎょっとしたが、すぐに気を取り直して声をかける。
「ありがとうございます」
 労いにワルギリアは控えめに微笑んだ。
 挨拶が終わるや否や、彼女の関心は自身の愛弟子へと移る。
「ベアトの様子は……?」
 問いに対して、戦人は無言でベアトの方へと視線を向けた。
 相変わらず物言わぬ人形状態の彼女を見て、ワルギリアはすべてを察したようだ。
「……そうですか」
 淡々と呟き、重い沈黙が落ちる。
 空気を変えようと戦人は別の話題を振った。
「ゲームの方はどうだ?」
 しかしこの質問は失敗だった。
 問いに対してワルギリアの表情はわずかに翳りをみせる。
「……変わらず、ですね。今は一時休憩で戻ってまいりましたが……正直、疲れます」
 あまり感情を表に出さないはずのワルギリアでさえ嫌悪を隠せない様子だ。
 原因については考えるまでもない。
 ベルンカステルとラムダデルタ。ついこの間までは大人しく戦人とベアトのゲームを観戦していただけの傍観者だったはずの彼女達。
 それがベアトがゲーム続行不可能状態に陥った途端、残酷な本性をあらわした。
 二人の魔女に乗っ取られたゲームがどれほどの惨状となっているのか、推して知るべしだろう。
「そうか……。悪いな、あんたにばっかりおしつけちまって」
 戦人は申し訳なさそうに視線を下に落とした。
 己の配慮の無さと、ひいてはワルギリアひとりにすべてを任せて自分は蚊帳の外にいるという罪悪感が重く圧し掛かる。
 だが、どうしても戦人はゲームに参加する気にはなれなかったのだ…………。
 ワルギリアはこちらの心情を完全に理解しているようで、鷹揚に頷いた。
「いえ、お気になさらず。……そういう戦人君こそ少しお疲れではありませんか?」
「え?」
 くすり、とワルギリアは小さく微笑む。
「さきほど伸びをされてましたね」
 見てたのかよと戦人は苦笑した。
「私がベアトを見てますから、戦人君も休憩を取られてはいかがですか?」
「おいおい、何言ってんだ。それじゃあんたの休憩にならないだろ」
 ワルギリアの気遣いは嬉しいが、それを素直に受けるわけにはいかない。
「それに俺は全然疲れてないぜ。今のこいつは泣きも喚きもしない、人形のお姫様だからな」
 戦人は軽口を叩きつつ、おもむろにベアトの頭へと手を置いた。
 もちろん彼女は文句ひとつ言わず、されるがままである。
 しかしワルギリアは引きさがらない。
「たしかにそうです。……だからこそ、あなたにはひとときの息抜きが必要なのですよ」
 戦人は怪訝そうに眉を顰めた。
 すると、ワルギリアは生徒に教える教師のごとく朗々と語り始める。
「人のコミュニケーションは通常双方向で成り立つもの。
 相手に認められたい。好きになってほしい。己の好意に対して何らかの見返りを求めずにはいられない、それが人間というものです。
 ですから、こちらにまったく応えてくれない者を相手にするだけで、心には十分負担となるのですよ」
「へへ、……痛いとこつくな」
 戦人は苦笑いを浮かべた。
 たしかにワルギリアの言っていることはもっともだと思う。
 人間は弱い生き物だ。
 一人では生きてはいけず、だからこそ誰かと寄り添いあうのだろう。
 たとえば、友人。家族。仲間。……恋人。
 ──けれど、その想いが一方的なものだったとしたら…。
 釣り合いの取れていない関係性は悲劇を生む。
 当たり前のことだ。求めた相手に応えてほしいと思うのは正常な人間の欲求なのだから。
 そして相手も自分と同じ想いを返してくれるとは限らないのもよくある話なのだ。
 結果お互いを傷つけ合い、好意はやがて別のモノへと変貌する。
 戦人は幼い頃の環境から、よりにもよってもっとも身近にいる者達からそれを教わる羽目となった。
 そういう意味ではワルギリアに教えられるまでもなかったのだ。
 しかし、戦人としてはどうしても異を唱えておきたいことがあった。
「けどな、俺はベアトに認められたいとも愛されたいとも思ってるわけじゃねえぞ」
 だが戦人の主張はあっさりとつき返される。
「そうですね。けれど、この子の今の状態をよしとせず、できるならば以前の彼女に戻ってほしいと思ってはいるのでしょう?」
「……」
 ワルギリアの質問は確認、ではない。もはや断定である。
「そういうことです。わかりましたか?」
 戦人は両手を挙げて降参のポーズをとった。
「ああ、十分わかったさ。ありがとうな、ワルギリア」
「どういたしまして」
 ワルギリアはふふっと優しく微笑んだ。
 ふわりと柔らかな空気の中、戦人は再び大きく伸びをする。
 自覚はなかったが、あちこち軋む身体に本当に疲れているらしいとようやく気づく。
「つっても、休もうにも寝るか茶でも飲むぐらいしか思いつかねえな……。こういう時は、どっか外にでも行ければいいんだけどな」
「外……ですか?」
 不思議そうにワルギリアが首を傾げる。戦人は笑って補足した。
「ここも、薔薇庭園もたしかに“外”さ。でも俺が言ってる“外”とは違うんだ」
 微妙な言い回し。けれどワルギリアはなるほどと言うように深く頷いた。
「ええ、わかりましたよ。青空の下……風が吹き抜ける大地。あなたが行きたいのはそのような場所ですね」
 戦人はああ、と短く答えた。

 無数の花が咲き誇る薔薇庭園。ここはまるで理想郷とでも言うべき完成された世界。
 誰もがその美しさに見惚れ、現実を忘れて心を癒すだろう。
 ──だが違うのだ。
 言うなればここは創られた箱庭。
 どれほど美しくとも、それは本当に存在しているかどうかすら疑わしい幻想なのだ。
 ただの人間である自分には、一時的ならばともかく、ずっといては正直あまり居心地がいいとは言えない。
 戦人が欲しているもの。それは生きていてば誰もが特に何の思い入れもなく普段から接しているものだった。
 輝く太陽の光。踏みしめる大地。心潤す緑。
 ありのままの自然の姿が感じられる──現実の世界だった……。

「そういうこと。……まあ無理ってことぐらいわかってるさ。くだらねえ話聞かせちまったな」
 戦人は自嘲気味に笑った。
 今の自分は魔女の世界に囚われた立場だ。
 どれほど望もうとも、この場所から逃れられやしない──ゲームが終わるまでは。
 しかしワルギリアからは予想外の反応が返ってきた。
「いえ……素晴らしいアイディアです。是非採用しましょう」
「………………へ?」
 突拍子もない言葉にあっけに取られ、戦人はぽかんと口を開けた。
 聞き返す間もなくワルギリアは歌うように口ずさむ。
「さぁさ思い出して御覧なさい。真っ青な空の色、吹き抜ける風の匂い、芳しい花々の姿を……!」
「お、おい、ワルギリア? あんたいきなり何言って……ふぇっ!?」
 最後まで言い終える前に景色が突然変わった。
 薔薇庭園は姿を消し、周囲が青く染まる。
 早い話、……青空だ。
 否、変わったのは景色だけではない。
「んなああああああああああああああァァァッッ!?」
 足元が消失した。思わず下を見てしまった戦人は、直後しまったと後悔する。
 はるか遠方に見える大地。徐々に近づいてくる景色に、近づいてるのはむしろ自分の方だと悟ってしまう。
 つまりだ。ようするに。いま自分がいるのは。

 ────────空中だ。

「おちっ、おちおちおち落ちるぅううぅうぅうううううううぅうぅぅうぅぅぅぅうぅッッ!!!!!!!」
 叫んだところで事態は何も変わらない。
 戦人は重力に従い(この世界に普通の物理法則があるかどうかは疑問だが)、猛スピードで落下した。
 そのまま地面に叩きつけられて墜落死──は、しなかった。
 地面に触れる寸前、突然落下速度が緩み戦人は空中に停止した。
 見えない何かの力でくるりと体勢が整えられ、しっかりと二本の足で大地に降り立つ。
 無事助かったことに思わず安堵の息をつく。
「………………し、死ぬかと思ったぜ…」
 既に数え切れないほど生死を繰り返している身とはいえ、やはり身体への直接の痛みというものは慣れることはないものだ。
 ようやく落ち着きを取り戻した戦人は辺りを見回した。
「……ここは…どこだ?」
 見渡す限りの地平線。
 果てまで続く地面を彩るは数え切れないほど多くの花が咲き誇る満面の花畑。
 独特の甘い香りが鼻をくすぐり、これが幻ではないことを実感させる。
『どうやら無事に到着したようですね』
 ふと、どこからともなく涼やかな声が耳に届く。
「てめえええ、ワルギリア! 何の真似だこれは、出てきやがれ!」
 見えない相手に向かって戦人は叫んだが、返ってきたのは一方的な言葉だけ。
『では戦人君、今からベアトを送りますので受け止めて下さいね』
「はあッ!?」
 頭上を見上げると、間髪入れず空から何かが降ってくる。
 しかしながらこの場合、何かが何かなどと推測する暇も、余裕も、ありはしない!
「ちょっ、ちょっ待っ、あ、待てええええええええええええ!!!!!」
 戦人は慌てて走り出した。
 全力疾走の果て、最後の一呼吸の距離を地を蹴り、跳ねて、手を伸ばし、見事ベアトリーチェを受け止めた。
 細い身体を力ずくで引き寄せて、落下のダメージを少しでも和らげようと努力する。
 全身を強い衝撃が襲い、そのままごろごろと花畑を二人で転がった。
「はあ、はあ……」
 花畑の上を何回か転がり、やがて止まると戦人はベアトを抱いたままゆっくりと身を起こした。
 荒い呼吸をなんとか整えつつベアトの様子を窺う。
 多少の乱れはあるものの、幸いにもどこも怪我をしたようには見えない。
 だが、息つく暇もなく次の苦難が戦人を襲った。
『申し訳ありませんが、ゲームが再開したようなので私はこれで失礼します』
「何ィッ!?」
 寝耳に水とばかりに問い返したものの、
『ベアトの事、よろしくお願いしますね。それではごきげんよう……』
 徐々に小さくなっていく声。嫌でも恐ろしい事態を悟らされる。
「おい、なんか違うだろ。俺を休憩させるつもりじゃなかったのかよ、なんでベアトまで来てんだ!?
 …………ふざけんなーーーーーー!!!」
 戦人の絶叫が空高く響き渡る。
 ワルギリアからの反応は何もない。すでに去ってしまったのだろう。
 放り出された格好となった戦人は頭を抱えた。
「ったく、どうしろっつうんだ……。大体ここどこだよ。こんな場所、あの世界にあったのか……?」
 魔女の世界のすべてを知っているわけではもちろんないが、あまりにも今までいた場所とは印象が違っている。 
 真っ青な空と、見渡す限りの花畑。
 ここはまさに自分が望んだ通りの場所だ。
 まるで現実のように感じられるが、本当に存在している世界なのかどうか、非常に疑わしい……
 そう思った瞬間だった。
「……な、やべッ!!」
 戦人は思わず裏返った声をあげた。
 世界が歪んだ。
 比喩ではない。ぐにゃりと渦を巻き、壊れかけたのだ。
 慌てて思考を打ち消すと、あっという間に花畑は元の平穏を取り戻した。
 この状況の変化が意味するものはただひとつ。
「そうか……魔法、か」
 腑に落ちた、と戦人は吐息と共に呟いた。
 ベアトリーチェと何度も戦った経験から、さすがに色々と学んだことがある。
 そのうちのひとつが──『魔法』だ。
 魔法の本質。それは──

(──愛がなければ、視えない)

 繰り返されるゲームの最中、ワルギリアやベアトリーチェが教えてくれたこと。
 『魔法』は否定されると簡単に壊れてしまう、脆く儚い幻想なのだ。
 少なくとも戦人はそう解釈していた。
 この幻想の世界から脱出することはさして難しくはないだろう。前述の通り、『魔法』を否定してしまえばいいのだ。
 たったそれだけでこの美しい花畑は崩壊してしまうだろう。
 
 だが、戦人はそうしようとは思わなかった。
 
 自分は『魔女』を、『魔法』を否定する立場にあるが、常にその姿勢を貫き通すわけではない。
 どうしてワルギリアがこのような真似をしたのか。
 落ち着いて考えてみれば簡単にわかる事だった。彼女は最初から言っていたではないか。「戦人君も休憩を取られてはいかがですか?」と……。
 だから戦人は『魔法』を否定しない。否定してしまってはワルギリアの好意を踏みにじることになる。
 そして、『魔法』の否定は『魔女』の否定にも連なる。『魔女』……すなわち、“黄金の魔女”ベアトリーチェの存在をも否定する事にもなってしまう。
 彼女と交わした「お前を殺してやる」という約束はゲーム盤上で果たされるべき事。盤外でまで彼女を追い詰める気はまったくない。
 まして、今の彼女を相手には……。
 ゆえに戦人は小さく息をつき、こう言った。
「しかたねえな、迎えが来るまで休むか」
 たまにはこうしてのんびりするのもいいだろう。
 ──ワルギリアのせっかくの心遣いを無駄にしないためにもな。
 戦人は隣で仰向けになっているベアトを見た。
 おそらく戦人を休ませようという気持ちもあるのだろうが、ベアトについても同様の考えではないだろうか。
 かなり強引な方法ではあったが、逆に言えばそれだけ心配させてしまっていたのだろう。
 戦人はベアトの背中を抱えると、そのまま彼女の姿勢を座るように整えた。
 しかしながら今の彼女は自力で立つことも座ることも無理なので、戦人自身の身体を支えに傍らに寄りかからせる。 
「……ッ」
「あ、悪い。痛かったか?」 
 ベアトは眉根を寄せて短い音を発した。何かまずかっただろうかと慌てて彼女の顔を覗きこむ。
「……」
 しかし、ベアトは再び無表情の仮面を貼り付けてしまっていた。
 戦人はどことなく落胆した思いを感じつつも、彼女の傍らに腰を据えた。
 よっこらしょと座り込み、やっと人心地つく。
 なんとはなしに目の前の花々へと目を向ける。
 暖かな日差しに照らされた名も無き花の群れ。見ているだけで心が安らいでいくのを戦人は感じた。
 優しく吹き抜ける風が泣きたくなるほどに心地いい。毎日殺すの殺されただのと荒んだ言い争いばかりしていたのが嘘ではないかとすら思えてくるほどだ。
 自分たち以外誰もいない無音の世界。
 ここでは魔女もニンゲンも関係なく、穏やかに過ごしていられる気がする。
 戦人はベアトを見つめた。
 彼女の足には相変わらず鎖が巻き付いているが、それでも薔薇庭園でなすがままにされている時よりはましではないだろうか。
 …………仮初の自由ではあるけれども。
「っと、こんな考え方じゃ駄目だな、全然駄目だぜ」
 戦人は首を振った。暗い気持ちのままでいたのではせっかくの休息が台無しだ。
「さてどうするかな……。花、花ねえ……」
 適当に呟きつつ考えをまとめる。
(──そういえば昔、六軒島にも花畑があったような気が………)
 子どもの頃の思い出が唐突に蘇る。今は一年に一度しか訪れない六軒島だが、昔は親族会議の時以外にも行く機会があったのだ。
 いつ行ったのかまでは思い出せないが、花畑で遊んだのならおそらく春だったのだろう。
「思い出してきたぞ……。そういや、あん時習ったよな!」
 脳裏に蘇る記憶を元に戦人は早速行動を開始した。



「ここをくるっと巻いて……とーめーて! よし、できた!」
 最後の茎を巻き終わり、固く結び目を作る。
 あやふやな記憶を頼りに作ったが、なんとか形になったことに戦人は満足げに微笑んだ。
「ああ……ちょっと不恰好か? いや、これはこれで味があるよな!」
 十数分の奮闘の末に出来上がった努力の結晶。それを戦人は彼女の頭へと被せた。
「ほら、ベアト」
 色とりどりの花を束ね作られたそれは……いわゆる、花の冠だった。
 ベアトからの反応はやはりないが、花の冠は華やかな彼女の容貌によく似合っていた。
 元々口を開きさえしなければ見てくれは十分美女なのだ。ある意味当然とも言えるだろう。
 けれど戦人はわざとらしく憎まれ口を叩く。
「やっぱり俺は天才だな! モデルがお前でも十分綺麗にみえるぜ!」
 にやりと口角をあげて笑ってみせる。
 以前の彼女ならば間違いなく怒って抗議してきただろう。
「……」
 反論してくるはずのベアトは何も言わない。
 つくりものめいたうつろな表情は戦人が何を言おうとも決して変わることはない。
 それでももしかしたらと何度も期待しながら声をかけて、その度に勝手に傷ついて落ち込んでいる自分がいる。
 全身に広がった無数の見えぬ傷口からはとめどなく血が吹き出して、詮無いことをどうしても考えてしまうのだ。

 ──もう彼女が戻ってくることはないのかもしれない、と。

 自分と対戦することはもはやありえないのではないかという恐怖。
(…………馬鹿なことを考えるな。絶対にベアトは戻ってくる。戻って、今度こそ俺とのゲームに決着をつけるんだ……!)
 挫けそうになる心を強く叱咤して打ち消そうとする。
 だが不安は消そうとすればするほど何倍にも膨れ上がるのだ。
「……駄目だ、全然駄目だ。俺が弱気になってどうする!」
 わざと声を張り上げる。己の中の揺らぎに負けないようにと。
 脳裏に浮かぶは遠い記憶。
 こちらを見下し嫣然とした笑みを浮かべていた魔女ベアトリーチェ。そんな彼女がいまや見る影もないほどに哀れな姿を晒している。
 本当にもう二度と会えないのだろうか。
 唇を噛み締めながら戦人は言った。
「……なあ」
 喉から漏れるはくぐもった声音。
 自分のこんな声は生まれて初めて聞いた気がする。
「頼むからさ……」
 戦人はベアトリーチェの両肩に手を置いた。
 合わさる視線。
 しかし、そう思ってるのは自分だけだろうと戦人は思った。
 彼女の瞳には何の感情も浮かんでこない。
 青いガラス玉のような瞳はくすんだ色のままだ。
 そこに映っている自分の姿があまりにも滑稽で、そして無残に見える。
「……何か言ってくれよ…」
 どうしようもない本音が口をついて出る。
「ほら、馬鹿みたいに大口開けてさ……。俺のこと、さんざん嬲り倒してもいいから……」
 ──なにが馬鹿だ。馬鹿なのは俺だろう。
 言ったところで今の彼女には届かない。
 彼女自身にもどうにもできないのだとわかっているのに、それでも希ってしまう自分はなんと愚かなのだろうか。
「頼むから…………戻ってきてくれ、ベアト……」
 戦人は腕をベアトの背後に回すと、彼女を抱き寄せた。
 細い身体をぎゅっと胸に閉じ込める。
 こんなに近くにいるのに、これまででもっとも遠くに感じる。
「ベアトリーチェ………ッ!!」
 名前を呼ぶ。彼女の耳元で。荒れ狂う嵐のような激しさに身をまかせるままに叫ぶ。

 ……………………返事は、なかった。



 気がつくと、戦人は花園にいた。
「……あれ?」
 見渡す限り無数の花が咲き誇る美しい花畑。
「…………ここ、……は?」
 戦人は呆然と立ち尽くした。
 一見さっきまでいた場所と同じに見える。
 だが、何かが違う。
 同じ風景であるにもかかわらず違って見えるのは何故だろうかと訝しんでいると、突如背後から声が聞こえた。
「戦人ッ!」
 それは女性の声だ。
 とても聞き覚えのある懐かしい声。
 彼女と最後に言葉を交わしてからそれほど時間が経っているわけでもないのに、なぜだかもうずっと聞いてない気がして、どれほど聞きたかったと望んでいた事だろうか。
 間違いなく彼女の声だとわかっているのに、だからこそ戦人は呼びかけに応じることができなかった。
 そんなはずはない。今の彼女が自分を呼べるわけがない。
 この声は幻聴だ。振り向いたとしてもそこには誰もいない。
 いたとしても、それは人形と化した彼女だけ。
 もし、そのような光景を実際に見てしまったら、自分は立ち直れないほどのショックを受けるだろう。
「おい、戦人! 聞こえておるのだろう!?」
 ああ、なのに。
 またしても背後から声がかけられる。
 彼女らしい、苛立ちを隠さない声音。
 これで本当に彼女がいなかったら、自分はどうすればいいのだ。
 ぐるぐると逡巡すること数秒。
 結局戦人は誘惑に抗いきれず振り向いてしまった。自分でも本当に馬鹿だと思う。
「……ベアト?」
 語尾が上がり口調になってしまったが、それは当然というものだろう。
 戦人から数歩ほど離れた位置に彼女がいた。
 青い瞳は以前と同じ強気な眼差しを浮かべて。
 金の髪は下ろされて、緩やかに風に遊ばれている。
 その頭上を飾っているのは、さきほど戦人が作った不恰好な花の冠だ。
「戦人、何ぼけーっとしているのだ」
 ベアトリーチェは立ち尽くしたままの戦人に無造作に近寄ると、上目遣いに覗き込んできた。
「妾のような美女と一緒にいれるのだぞ。もっと喜ぶがよい!」
 傲岸不遜を絵に描いたような言動。
 このような言い様に嬉しくなってしまった自分はおかしいのかもしれない。
 いや。きっとずっと前からおかしかったのだ。
 胸の奥が熱くなって、気がつくと身体が勝手に動いていた。
「ベアトッ!」
「んなッ!?」
 戦人はベアトを力いっぱい抱きしめた。
「ちょっ、く、苦しい! いきなり何をする!」
 焦った声で嫌がるベアトにも構わず、腕に更に力を込める。
 ──無我夢中だった。
 二度と彼女が消えてしまわないようにと。
 ベアトも最初こそ抵抗していたが、するだけ無駄と悟ったのか身体の力を抜いて大人しくしている。
 それをいいことに戦人は衝動の赴くままに彼女を抱きしめ続けた。
「ベアト……お前、ほんとにベアトなんだな…」
「そうだ、妾だ、だからいいかげん離すがよいぞ!!!」
 身じろぎする柔らかい身体の感触、戦人はようやく自分が何をやっているのかとはっと我に返る。
 自然と拘束が緩み、ベアトがするりと抜け出す。
 彼女は乱れた身なりを整えつつ「一体なんなのだ」とぶつくさ呟いている。
「……悪い」
 戦人が両手をつき合わせて謝ると、魔女はふふんと胸を反らせて笑う。
「まあよい。妾は寛大ゆえ、この美しい花々に免じて許してやろうぞ」
 そう言うとベアトは片手で花畑を指し示した。
「見ろ、戦人! 花がすごく綺麗だぞ!」
 こちらまでつられてしまうような弾んだ声。
 彼女はその場で突然深呼吸を始めた。
「いい匂い……。よい天気だし、なんだかウキウキしてしまうな!」
 花々を両腕に抱え込むように広げて満面の笑顔を浮かべている。まるで子どものようにはしゃいでいるベアトの様子に戦人は少々面を食らった。
「……お前、そんなキャラだったか?」
「何を言う! さっきから失礼な奴だなお前は!」
 ベアトは早口に言うとぷいっとそっぽを向いてしまった。
 すっかり機嫌を損ねてしまった様子に戦人は己の失言を悟る。
 弁解の言葉を頭で連ねるも、表には出さない。何を言ってもまた怒らせそうな気がしたからだ。
 しばしの沈黙。それは突然訪れた。
 くるりと身体ごと反転、ベアトは戦人と向き合う格好になった。
 むくれた表情から一変、真摯な眼差しが戦人を貫く。
「妾は花が好きだ。花を見ると心が和む。晴れた青い空も、吹き抜ける自由な風も、ずっと、ずっと昔から大好きだ」
 ベアトリーチェは微笑しながら囁いた。
 視線は戦人を通り越してどこか遠くを見つめている。
 たしかに微笑んでるはずなのに胸を締めつけられるような儚さが漂ってるのは自分の気のせいだろうかと戦人は思う。
 ベアトはさらに続けた。
「妾は、妾は……ずっと。ずっと、お前と、何の争うこともなく穏やかに一緒にいられたらと願っていた……」
 え、と戦人は口をポカンと開けた。
 何か言おうと口を動かすが、何も出てこない。なんと言えばいいんだ。
 呆然と棒立ち状態の戦人をベアトは上目遣いで見つめてくる。
「……びっくりしたか?」
「…………した」
 戦人はまじまじとベアトを見つめ返しながら上の空気味の台詞を返した。
 結論から言うと、
 ──────信じられない。
 今耳にしたのは空耳だったのではないかと何度も考える。
 ありえない。こいつがこんなしおらしいことを言うはずがない。きっと嘘だ。絶対に嘘だ。なにがなんでも嘘だ。
 今まで培ってきた彼女のイメージが根底から覆されて、頭がどうにかなりそうだ。
 だが耳に届いた言葉は、あまりにも真実味を帯びていて……
(……いや、やっぱり嘘だ………よ、な…?)
 信じそうになっては打ち消して、を何度も繰り返す。
 堂々巡りの思考の中、ふと戦人は気づいた。 
 ──風が運んできたある音に。
 耳にもれ聞こえるは小さな、小さな……
「……くくく…」
 …………笑い声!
「あ、てめえ、嘘だな!?」
 戦人が叫んだと同時にベアトはぷっと吹き出した。
 後はいつものように下品な笑い声をたてて、身を捩じらせながら笑い転げる。
「ひゃはははははははははっははっはッ! 残念でしたァ、魔女はァ、改心なんてしませェん☆」
 以前にも聞いた愚弄の台詞。
 戦人は悔しげに指を鳴らして吼える。
「ちっくしょおォォォッ! また騙されたァ!」
「なぁ戦人ァ。お前本当馬鹿だろ? 妾が言ってやろうか、『駄目だな、全然駄目だぜ!』。学習能力って知ってるかァ……?
 ぷぎゃっははっはッ!!!!」
「うるせえええええッ!!!!」
 ああ馬鹿だ。本当に馬鹿だ。どうしようもないほど馬鹿だ。世界一の馬鹿だ。
 あれほど、何回も何回も騙されているというのにまたしても騙された自分が情けないを通り越して悲しくなってきた。
 戦人はがくっと崩れ落ち、地べたに力なく座り込む。
 すると、ほどなくしてぽんぽんと優しく肩を叩かれる。
「まあ、実は本当だったりするかもしれんぞ?」
 この期に及んでまだからかってくるベアトに戦人は涙目で反論する。
「いや。もう信じない。信じるわけねえだろ馬鹿野郎ッ!?」
「くっくっく、赤で言ってやろうかァァァッ!?」
「こんなくだらねえことで赤を使うなッ!!!」
 聞きたくないとばかりに耳を塞ぐ。
(絶対に、ぜえーーーったいにもう信じるものか!)
 全身で魔女を拒絶する戦人だったが、そこへ予想もつかない矢が放たれる。
「…………くだらなくはないぞ」
 魔女は言った。
「ああッ!?」
 まだ言うかとばかりに戦人はやけっぱち気味に応じて、……しかし、ベアトの表情を見て驚く。
 まるで泣き出す寸前のような──弱弱しい顔。
「くだらなくなんかない。妾にはとても重要で、そして………………とても、大切だ」
 彼女は消え入りそうなほどの小声で呟いた。
「ベアト……?」
 思わず声をかけるが、彼女は無言のままだ。
 言うべきことは全部言ったとでも言うように。
 可愛らしさを装って騙しあざ笑ってきたかと思いきや、一転して儚げな姿をみせる。
 一体どちらが彼女の真実なのだろうか。
 くるくると態度を変えるベアトに振り回されて、どう応対すればいいのか戦人はわからなかった。
 戸惑い、何かを探すように視線を彷徨わせる。
 そのうち再びベアトと視線がかち合う。
 彼女はただじっとしていた。じっと待っていた。さながら──人形のように。
 刹那、頭の片隅を何かが走り抜ける。けれどもそれはあまりにも短すぎて、残像すら追えなかった。
 残ったものは身に覚えのない感情……強い、後悔だった。
(──なんで俺は後悔してるんだ?)
 考えてもまったくわからなかった。考えようとすると、頭に霧がかかったかのように思考がぼやけていくのだ。
 わかっているのは…………もしこのまま彼女を人形のままにしておいたならば、取り返しがつかないほどに悔やむだろうという根拠なき想い。それだけは何故かはっきりとわかってしまう。
 だが、そんなあやふやな理由だけでも決断の指針としては十分だった。
 迷いがさざなみのように引いていく。
 覚悟を決めて、戦人はゆっくりとその場に立ちあがった。
「……ったく。しかたねえな、ほら」
 頭を掻き、不承不承な様子ながらも戦人はベアトリーチェへと手を差し出した。
「戦人?」
 今度はベアトの方がきょとんとなる。
 自分から言い出しておきながら何故驚くのだろう。
「よくわかんねえけど、ようするにお前は俺と普通に過ごしたいんだろ? 今日は休戦だ、付き合ってやるよ」
 そっけない口調を演じつつ、頭の中ではまったく逆だった。 
 また騙されてるのかもしれない。
 ……けれど、騙されてもいいと思ったのだ。
 自分と彼女は敵同士。どうせ元から嘘と偽りにまみれた関係だ。
 ならば、今更嘘のひとつやふたつ増えたところで何も変わらない。
 それも今までのような人の生死に纏わるものではなく…………ただ一時の安らぎを得るためのささやかな嘘ならばかまわないだろう。
「……戦人」
 ベアトは信じられないといった様子で口を開けていたが、やがて花が開くように笑顔へと変わる。
 おずおずと白い手があがる。
 なかなか縮まらないわずかな距離。けれど、戦人は強引に彼女の手を取っるとぐいっと自分の方へと引き込んだ。
 たまらずたたらを踏む彼女の身体をしっかりと受け止める。
「おい、気をつけろっての」
 戦人がからかうと、ベアトは顔を赤面させてどもる。
「お、お前のせいであろッ!?」 
 他愛のない会話に自然と戦人の顔に笑みが生まれた。
 ふたりは手を繋ぎながら並んで花畑を歩いた。
 傍から見れば命のやり取りをしあうような敵同士にはとても見えないだろうなと漠然と思う。
 じゃあ何に見えるかと考え、一番最初にとんでもないものを思いついてしまった。なんとも気まずい心境に陥り、すぐさまかぶりを振って消し去る。絶対に口には出せない。彼女を図に乗らせるだけだ。
 代わりにくだらない軽口を叩いて気分を紛らわせる。
「自分で言うのもなんだが、俺は世界一優しい男だなあ……」
 しみじみとのたまう戦人の横でベアトがせせら笑う。
「馬鹿者め、自分で言う奴があるか」
 いつもどおりの憎まれ口。さきほどの気弱な態度はどこへやら、あっという間に元の傲慢な魔女に逆戻りだ。
 そう来るならと戦人は返しの一手を放つ。
「じゃあお前は世界一素直じゃないお姫様だな」
 効果覿面。ベアトは目を剥いて固まった。
 小さな勝利に戦人がにやにやしていると、ほどなくして魔女は硬直から立ち直る。
「なんだとッ!? 自分で言うのもなんだが、妾ほど自分の欲望に正直な者はおらぬぞッ!?」
 何故そうなる。
 ずれまくった反論に呆れ、戦人はこつんと軽くベアトの頭を叩く。
「──訂正する。やっぱりお前は世界で一番我が儘な魔女でいいや」
 ベアトはむうと膨れっ面をつくるが、すぐににへらと相好を崩した。
 よほど嬉しかったのか、鼻歌を口ずさみながらぎゅっと戦人の手を握り返してくる。
 そんな彼女を見ながら戦人はある確信を持った。
(これはきっと夢だ)
 これほど幸福感に満ち足りるだなんて、夢でしかありえない。
 彼女の嘘に付き合ってやっているつもりが、いつの間にか自分の方こそがこの状況を楽しんでいる事に遅まきながら気づく。
 もっと、この時間が長く続けばいい。
 このまま永遠に夢から目覚めなければいいのに。
「戦人?」
 ふと隣からベアトが不安げに話しかけてくる。
 いきなり黙りこんでしまった自分を心配したのだろう。
 安心しろとばかりに戦人が「なんでもない」と微笑むと、ベアトはほっとしたのかふわりと笑った。
 その笑顔があまりにも眩しくて、胸を穿つような錯覚を覚える。

 ──夢とは、なんと甘く残酷なのだろうか。



















 日は翳り、薄暗い空の下。
 花園はさきほどまでの明るさを忘れてしまったかのように夕闇に染まっている。
 空は黄昏、動く者は誰もいない。
 静寂が支配する中、突然人型サイズのつむじ風が現れた。
 風はくるくると花びらを巻き上げて、やがて唐突にやむ。そこに現れたるはひとりの魔女。
「──ベアト、戦人君」
 花畑に降り立ったワルギリアは彼女にしては珍しく早口に言った。
「すみません、遅くなりました。作戦会議が少々長引いてしまいまして………え?」
 途中、ワルギリアは言葉を失った。
 ……眼前に見えている光景があまりに信じがたいものだったからだ。
 我が目を疑いながらもワルギリアはおずおずと『彼女』に声をかけた。
「………………ベア………ト?」
 応えはない。
 ベアトリーチェは膝の上に戦人の頭を乗せながら花畑に座り込んでいた。
 ──自分の力で。
「あなた、戻ってこれたのですか!? ……いえ、まだのようですね」
 問いかけの半ばにして疑問の答えに自ら気づく。
 ベアトは相変わらず焦点の定まらない瞳を浮かべていた。
 時折苦しげに眉を顰め、彼女の足首には束縛の鎖がきつく絡みついている。
 ワルギリアは悲しげに息をつくと視線を戦人の方へと向けた。
 すうすうと寝息を立てて眠っている彼の姿にほっと胸を撫で下ろす。
 荒療治で送り出したものの、どうやら彼にとっては有益な休憩をとることができたようだ。
 そんな戦人の頭を優しく撫でる手があった。
 ベアトリーチェだ。
 何度も、何度も……機械的な動きながらも彼女は延々と撫で続ける。
 行為自体にはあきらかに彼女の揺るぎない意思を感じられるというのに、ベアトの意識が戻っている様子はない。
 一体何がどうなってこのような状況になっているのかと、ワルギリアは深く考え込んだ。
「これは……」
 二人の様子を見ているうちにすとん、と思考が開かれた。
 ワルギリアはすべてを悟る。
「そういうことですか」
 これほど近くで声をかけているというのに戦人はいまだ目を覚ます気配が無い。
 つまりはその眠りは自然のものではなく──魔法によって眠らされているのだということ。
 この場に魔法を使える者は、ワルギリアが来るまでただひとりしかいなかった。
「ベアト…。あなたは、………あなたも、戦人君を休ませたかったのですね」
 ワルギリアの問いかけにベアトはなにも答えない。
 答えられないのか、答える気がないのか──。
 どちらでもいいだろうとワルギリアは思った。答えはすでに目の前にあるのだから。
「ええ、もう大丈夫です。戦人君はすっかり寝入ってしまってます。だから……」
 言葉を切り、優しく声をかける。
「……だから、もうよいのですよベアト。その目元にたまる雫を流そうとも。私以外、誰も見ていません」
 ワルギリアの一言が合図になったかのごとく、黄金の魔女の両の目尻から涙が溢れた。

 求めているのに応えてくれないのはつらいこと。
 けれど、求められているのに応えられないのも同じくらいつらいこと。
 声をあげることもできずに泣くベアトの姿を見ながらワルギリアは思った。
 もしも神がいるというのならば。

(どうかこの子を。──この子達を、解放してあげてください)

 魔女ワルギリアは知っている。
 神に祈りをささげても、願いを叶えるのは結局は人間の強き意思なのだと。
 それは魔女にも言えること。
 ベアトは決して弱くはない。彼女は己の願いを叶えるために誰よりも強い意思を持ってゲームを始めたはずだった。
 それが無残にも打ち砕かれた今……
 ────魔女は絶望に堕ち、心が無間地獄へと囚われてしまった……。
 神はいない。神などいない。
 神がいたとしても、神は何もしない。
 それでもワルギリアは願わずにはいられなかった。
 ベアトが永遠の拷問から解放されることを。
 千年の孤独の果てに巡り会った運命の相手と共に幸せになることを──。








 ……………………私を呼ぶのは…………だぁれ?

 悲しげに私を見つめている……。

 この人は………だぁれ……?

 おぼろげな意識。夢とも現ともわからぬ視界に映るのはひとりの青年。
「……何か言ってくれよ…」
 彼は呟いた。力無い声に違和感を覚える。
 こんな声、彼にはそぐわない。
「ほら、馬鹿みたいに大口開けてさ……。俺のこと、さんざん嬲り倒してもいいから……」
 一途な眼差しに、ただ乞われているのだと気づく。
 気づいたと同時に二つの感情が生まれる。
 求められたことに対する純粋な喜びと、彼の想いに応えられないという絶望。
 相反する気持ちが綯い交ぜとなって、両足に絡みつく戒めの鎖以上に身体中を激しい痛みが襲う。
 けれど彼が私の内面の変化に気づくことは無いだろう。彼が見ている外側の私はまったく変わっていないのだから。
 人形のような私を見て、傷つき、悲しんでいるあなた。
 その辛そうな瞳に胸が痛くなって……息苦しくて……。
 いても立ってもいられずに、思わず唇から漏れた声。

『──泣かないで』

 なのに……たしかに出したはずの声は音にならない。
 否、声だけではない。
 泣くことも。笑うことも。指一本動かすことさえ、できはしないのだ……。
 何度も自分を呼ぶその声に応えたいのに、どうすることもできない無力な自分。
 歯痒くて、悔しくて。
 だから、胸の中だけで言葉を形作る。
 彼の耳に直接届くことはないとわかっていても止められない。声なき声は疼きを伴って心の奥から溢れ出す。

『──ごめんね』

『──ごめんね、戦人』

 巻き込んでしまってごめんなさい。
 私と同じ苦しみを与えてしまってごめんなさい。
 許してなんて言えない。そんな資格、自分にはもはやない。
「頼むから…………戻ってきてくれ、ベアト……」
 彼の悲痛な声音に心臓が軋む。
 痛みを取り去ってあげたいと切に思うが、はたして──自分にそれができるのだろうか。
 以前は息をするよりも楽にできたはずの魔法が、今はどうやってできていたのかまったく思い出せない。
 当然だ。魔法は心が為しえる奇跡。強い意思を持って望んだ者だけが使うことを許されるのだ。
 生ける屍と化している今の私には使えるかどうかすら疑わしい。
 だがそれは罪を自覚しながらも犯し続けた自分への罰。ましてや、この状態で魔法を使うのは自らの命を削り取るようなもの。自殺行為とすら言えよう。
「ベアトリーチェ………ッ!!」
 また呼ばれた。血のように赤い声は深淵に沈みゆく私の心を鷲掴んで問答無用に揺り動かす。
 ──やるしかない。
 強い決意と共に覚悟する。
 今から私が行う事は本来であれば様々な理由で許されない事だ。
 もしも傍に私の師がいたならば、絶対に止められていただろう。
 …………それでも、やらなければならない。
 たとえどのような代償を負うことになろうともかまわない。
 もう見ていられなかった。
 彼の痛ましい姿を。……私なんかのせいで苦しむ必要はまったくないのだから。
 私はすぐに拡散しそうになる意識を必死にかき集めて念じた。
 瞬間、光る蝶の群れが戦人の背後に顕現する。
 代償として全身を言葉にできぬ痛みが貫くが、かまわず魔法を行使する。
 間もなくして戦人は瞳を閉じ、とさっと崩れ落ちた。
 私は彼の身体を懸命に支えつつ花畑に直に座り込む。
 否、崩れ落ちたと言う方が正解だろうか。
 限界まで酷使した精神に引きずられるように身体が悲鳴をあげていたが、倒れるわけにはいかない。
 まだこれで終わりではない。
 運良く膝の上に乗った彼の顔は苦悶に満ちていた。
 やはりどうしても私は彼に苦しみしか与えられないのだろうか。
 少しでも和らげようとして、その頭にそっと手で触れる。

『ごめんなさい』

 伝えたいことがたくさんあるのに何も言うことができない。
 だから、せめて……今だけは心安らかな眠りを。

 魔女のいない、私のいない幸せな夢を見てください。





作者:茅葺吹雪様