……痛い。
洗面所の鏡を覗き込んで、ベアトは、はぁっとため息をついた。
戦人にひっぱたかれた左の頬が赤く腫れている。
じんじんと持って、痛かった。
はぁっと、もう一度ため息をついて洗面所を出た。
氷で冷やしておいた方がいいな、氷を出そう、とベアトは煙管を振ろうとして、止めた。
エヴァに魔力を譲り渡してから、身体の中がどうにも希薄に感じられる。
今まで身体中に満ちていた魔力が、もううっすらとしか残っていないのが解った。
氷を出す程度の魔法であっても、少量とはいえ確実に魔力を消費する。
この後、ゲームの進行のためになにがしかの魔法を使うこともあるだろう。
けちけちしたいわけではないが、少し節約するか、とベアトは煙管を下ろして部屋を出た。
とことこと廊下を歩いて調理場へ入る。
がたん、と大きな音がして、ベルゼブブが顔を上げた。
「ひゃあ! ベアトリーチェ様!」
「もう、ベアトリーチェではないぞ」
「あ、そうでした」
えへへ、と頭を掻くベルゼブブの手には、囓りかけのパンが握られている。
つまみ食いをしていたらしい。
やれやれ、と思いながら冷凍庫を開けた。
「……む」
「何かお探しですか? あ、解った、アイスクリームをつまみ食いしに来たんですね!」
ドリルロールのツインテールをぽよぽよと揺らしながらベルゼブブが明るく笑った。
目が煌めいている。
たぶん、ツインテールの頭の中は今、アイスクリームでいっぱいなんだろうな、とベアトは思った。
「違う……そなたでもあるまいし。氷を探しに来たのだ」
「氷ですか? 氷ってときどき囓ると美味しいですよね。味は無いけど冷たくて」
どこまでも食べることばかりだなぁ、この家具は、とベアトは首を振って冷凍庫の扉を閉めた。
製氷皿の中身は水で、凍るまでには時間が掛かるだろう。
タイミングが悪いな、とベアトは冷凍庫から離れた。
やはり魔法で出すしかないか。
どうせ大した量の魔力を消費するでもないし。
「あ、氷ならさっき戦人が全部持って行っちゃいましたよ」
「……戦人が?」
氷など何に使うのだろう、あの男。
ひっぱたかれた上に、怪物だの目の前に現れるなだのとまで言われて、そのうえ氷まで取り上げられるとは。
おのれ、許さぬぞ、戦人のくせに。
パンを囓るベルゼブブを残して調理場を出て、ベアトは戦人を探した。
戦人の私室をノックしてみても出てこない。
喫茶室にも喫煙室にも居なかった。
「どこへ行ったのだ……」
きょろきょろとしながら屋敷の中をくまなく歩き、階段を上ろうとしたところで手首を掴まれた。
「捕まえたぜ!」
「ひゃっ」
大声と共に捕まえられて、ベアトは縮み上がった。
おそるおそる振り向いて見ると、戦人が息を切らしながら手首を掴んでいた。
必死そうな表情に見えた。
「なっ……なんだ! さっきのことなら、その……」
さきほどの、エヴァの残虐さを楽しんで笑ったことをまた責められるのだろうか。
身構えたベアトは声高に叫んで手を振り払おうとする。
戦人はその手首を強く引っ張った。
「違ぇよ。……ちょっと座れ」
手を引かれて、階段の一番下の段に座らされた。
説教でもされるのか、と見上げるベアトの隣に、戦人は硝子のボウルを置いた。
ボウルの中で、氷が半分ほど溶け出していた。
その隣に戦人も座り込む。
ボウルを挟んで二人で階段に座り込む格好になった。
戦人は上着のポケットからハンカチを取りだして、氷水に浸した。
水に沈めて、ぎゅっと絞る。
からからと氷が音を立てた。
ぺたり、と腫れた頬に冷たいハンカチを押し当てられて、ベアトは身を竦めた。
「……なんなのだ、そなた」
わけが解らない、と横目で戦人を見遣った。
あんなにも怒って拒絶していたくせに。
なんだって、こんなふうに手ずから頬を冷やしてくれようというのか。
「……許したわけじゃねぇぞ」
ふいっと戦人が目を逸らした。
「ただ、その……女をひっぱたくってのは、良くなかったな、と思ってだな……」
もごもごと行って、戦人は照れたように顔を伏せて、ハンカチをまた氷水にくぐらせた。
手が冷たいだろうに、ハンカチをよく冷やそうと、
からからと音を立ててボウルの中身をぐるぐると混ぜていた。
ぎゅうっとハンカチが絞られて、また、ぺたりと頬にあてがわれた。
ボウルに視線を落とすと、製氷皿一杯分と思われる氷が、半分以上溶けて氷水になっていた。
硝子のボウル自体も冷やされて、水滴をはじいている。
……戦人のやつ、さっき、息を切らしていたな。
やけに必死な様子で、捕まえた、と手首を掴まれた。
……この氷、冷凍庫から取り出してどれほどの時間が経っているのだろう。
その間、戦人は屋敷の中のどこを走り回っていたのだろう。
きっと、戦人を探してうろうろと歩く自分を追い掛けて、
氷が溶けきらないうちに見付けようと焦って走っていたのだろう、とベアトは思った。
もちろん、戦人はそんなことをおくびにも出さないのだけれど。
ハンカチを押し当てる戦人の手に、ベアトはそっと自分の手を添えた。
「その……あの」
「……なんだよ」
「ぅ……なんでも、ない」
互いに目を合わせないまま、もじもじとして階段の一番下に長い間座っていた。
* * *
「……通れないじゃないのよぅ」
階段のはるか上の方で、不機嫌に膨れるエヴァの隣で、
ロノウェがぷくくっと笑った。
「どいてくれ、とでも仰せになって、蹴散らして通ればよろしいのでは?」
「私だって、いくらなんでもそこまで無粋じゃないわよ」
ふん、とエヴァがそっぽを向く。
ロノウェはますます笑って、うやうやしくエヴァの手を取った。
「では、回り道をして参りましょうか」
悪魔の執事のエスコート。
まぁ悪くはないかしら、とエヴァは機嫌を直してロノウェに手を引かれて歩いていった。