「愛してるだなんてとても言えない」



 戦人がベアトリーチェの形の良い頭に手を伸ばした事に、別段深い意味は無かった。
 目の前でふらふらと触れる金色の頭。それをぼんやりと眺めていたら、何となく捕まえたくなった。ただそれだけだった。


「ぎゃッ!」
 戦人の手が触れた瞬間、およそ女らしくない叫び声を上げてベアトリーチェが飛び退いた。そのあまりの俊敏さに戦人は伸ばした手をそのままに、呆然とした表情で彼女を見遣った。
 仮にベアトリーチェが獣だったのなら、おそらく全身の毛を逆立てている事だろう。威嚇するようにぐるるると唸りながら戦人を睨みつける。
「な、何をするッ!」
「え……。あ、いや別に深い意味はねぇんだが、目の前にふらふらしてたからよ……」
 そんなに悪い事をしただろうか。戦人は暫く空に浮かせていた手を引っこめると、代わりのように自らの後ろ頭を撫でた。
 戦人の返答にベアトリーチェは煙管を振り上げ、その先で戦人をずいっと示す。火のついた煙管の先端部分が戦人の鼻先を掠め、じりじりと焼かれるような感覚に陥る。
「な、何だよ?」
「何だよ、じゃねぇよォォッ! 良いか!? 女の髪に触れても良いのはそれなりの権利を持った男だけなのだぞッ! そうでない輩が軽々しく触れてはならぬのだぞ!」
「はぁ? 何だそりゃ」
「と、とにかくそういうものなのだッ! 分かったら気安く触るでないわッ!」
 柄にもなくその頬を赤く染め、わたわたと大きく身振り手振りを交えて力説しながら、戦人から距離を取るベアトリーチェ。戦人はそんな彼女の様子を、不思議そうに首を傾げながら見遣る。
 普段の尊大な態度とはまるで別人の彼女。頭に触れた事がそんなに嫌だったのか、或いは恥ずかしかったのか。
 じりじりと距離を取るベアトリーチェに、戦人はつかつかと歩み寄る。ベアトリーチェは更に距離を取ろうと後ずさりをした。
「おいこら、ベアト。それなりの権利って何だよ。逃げてねぇでちゃんと俺の質問に答えろ」
「う……ま、まあ何だ。そのつまりあれだ」
「だからどれだよ」
「ええと、あれといったらあれだ」
 尚も詰め寄る戦人に対しベアトリーチェはごにょごにょと言葉を濁すようにしていたが、やがて目線を逸らしながらぽつりと零した。
「その、恋愛関係……とでも言うべきか。血縁でもないのなら、そういった関係でなければ触れる事など許されぬ。女の髪というのはそれだけ大事なものなのだ」
 もじもじと。
 まるで男に触れられた事の無い娘のように。
 普段の彼女を考えると実に似合わないその所作に、戦人も少なからず狼狽してしまう。
「……な、何を乙女チックな事言ってんだよ。気色悪いな」
 何故だか妙に恥ずかしくなり、ふい、と顔を逸らしながら言った戦人に、ベアトリーチェも目を合わせようとはしない。


 ――恋愛関係。何だそれは。自分たちに最も似合わない関係ではないのか。


 推理する側とされる側。敵同士の二人。
 そんな二人にとって程遠い関係性を持ち出したベアトリーチェが何だか滑稽に思え、そしてそれはつまり触るなという意味なのだろうか、と戦人は考え直す。自分たちが恋愛関係に転じる事など、決して無いに決まっている。


「お、おお、そうだッ。そなたが妾を認め屈服しそして愛を囁くと言うのならば、触れる事を許してやっても良いのだぞ?」
 いつもの調子を取り戻そうとしたのか、わざとらしく一つ咳払いをしてから煙管をふかすベアトリーチェに、「誰がそんな事するか」と戦人は毒づくのだった。


 * * *


「…………」


 しとしと。ぴちゃぴちゃ。
 聞こえるのは雨音だけ。銀色の雫が降り注ぐ黄金郷の薔薇庭園で、二人は静かな時を過ごしていた。優しげな表情の男と、無表情の魔女と。他には誰も何も存在しない二人だけの世界。
「……」
「…………」
 先程までここに居たワルギリアの真似をして、戦人は櫛を手に取り、ベアトリーチェの金色の髪を撫でるように梳かしていた。いつものように結い上げていないその髪型が、現在の人形のような彼女の雰囲気を余計に助長させる。
 腰まで伸びた彼女の髪はさぞかし手入れも大変なのだろう。それでも枝毛の一つも見つからず、櫛に髪の毛が絡まる事も無いその様子から、普段彼女がどれ程念入りに髪のケアをしているかが窺えた。髪は女の命と言うが、成る程この魔女にとってもそうだったのかも知れない。
「女ってのは、面倒臭い生き物だよなぁ……」
 ベアトリーチェの髪に櫛を通しながら、戦人は一人ごちる。
 ――髪に触れても、彼女は微塵も抵抗しなかった。
 その事実が戦人の気持ちをほんの少しだけ落胆させる。過去のベアトリーチェを回想すると、今戦人がこうして触れているこの魔女との差はあまりにも明確だ。


 例えば笑ってくれたり。
 例えば触れる事を嫌がってくれたり。
 そうしてくれたら、ああ、どんなに良いだろうか。


 下品な表情も数多かったけれど、とにかくベアトリーチェはコロコロとよく表情が変わる女だった。戦人にとってそんな彼女の表情を見る事は腹立たしくもあり、けれど楽しかったというのも事実だ。
 兎にも角にも、彼女は感情が顔に出易かった。
 第三のゲームの時、騙されたと気付き絶望した戦人の言葉に対して彼女が一瞬だけ浮かべた苦悶の表情。あの時の彼女の表情の変化に、実際の所、戦人は気付いていた。騙していたのは事実だ、けれどそれだけが全てではなかった、と。あの瞬間の彼女の表情が言葉よりも何よりも雄弁にそれを語っていた事に、戦人は気付いてしまった。
 だからこそ戦人は次のゲームの開始時に、もう二度とあのような真似をするなと釘を刺したのだ。そんなつもりが無かったとしても、慣れ合ってしまえば必然的に情は湧く。そうすれば後々、互いに辛くなるのは明白だ。
「……だからこそ、俺はああ言ったのにな」
 馬鹿だな、と続け、戦人は自嘲するように小さく笑う。
 果たして現状はどうだろうか。自分では決して慣れ合っているつもりではなく、ベアトリーチェが元に戻り再戦をする事が出来るように、その時に今度こそ彼女を打ち負かせるようにと、彼女の進めてきた手を読み返しているつもりだ。そして、その為にこうして彼女の傍に居る。表情を、声を、失ってしまった彼女が、それでもまだ何らかのアクションを起こしてくれるかも知れないと。
 ベアトリーチェに勝たない限り、この狂った世界から戻る事は許されない。だから今の戦人がしている事は紛れもなく、元の世界へ――たった一人で待ち続ける妹の元へ帰る為なのだと。その筈なのだと。
 だけど、本当にそうなのだろうか。慣れ合いではないと、自分は胸を張って言えるのだろうか。


 ――それに、今更。
 今更、彼女を殺した所で。
 戦人は果たして何の感慨も持たずに、平然とこの空間から立ち去る事が出来るのだろうか。


 それを考えてしまうと、全てが分からなくなる。


 櫛を通していた手を止める。コトリと音を立ててテーブルに櫛を置き、戦人は手持ち無沙汰にベアトリーチェの髪に指を絡めた。やはり彼女は微動だにしない。微かな呼吸の音も雨音にかき消されてしまい、まるで本当に息をしているのかさえも疑問に思えてしまう程だ。
 一房掴んだ金色の髪に戦人はそっと唇を寄せた。ふわりと微かに漂う甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 確かに捕まえている彼女が、それでもこの手をするりとすり抜けていってしまいそうで、それがどうしようもなく悲しく思えて、戦人はぎゅっときつく目を瞑る。手放したくない、決して逃さない。この感情を例えるのならば一体何だろうか。
 多分、恋ではないと思う。そして憎しみでもないと思う。では一体何だろう。この独占欲の正体は一体何処にあるのだろう。
「何なんだろうな、一体。自分でもよく分かんねぇよ」
「…………」
 つい先刻、ワルギリアとドラノールと、そしてベアトリーチェと。この雨の薔薇庭園で紅茶を飲みながら、語らった内容が蘇る。
 自分と彼女の関係は、恋愛関係に何処か似ていると。確かに愛のある関係なのだと。
 ――ああ、例えば、これを愛と呼ぶのなら。
「神様ってのは……残酷なもんだよなぁ……」
 戦人は指に絡めたベアトリーチェの髪を放し、代わりに彼女の頭をそっと撫でた。金色の長い睫毛が僅かに震えた気がした。
 この感情は愛おしさではないと思う。けれど、どうしようもなく大切にしたい。そしてそれが戦人に出来ない事だと言うのなら、せめて安らかに眠らせてやりたい。
 決して愛おしさではないと思うけれど――ならばこの感情は一体何だと言うのか。


 そういえば第四のゲーム盤で、盤上の自分は彼女に愛していると告げた事があったな、と思い出す。尤も、あの時のその台詞は愛とは程遠い、寧ろ対極の感情である殺意を持って告げた物だ。
 けれど、対して変わらないのかも知れない。愛情と憎悪は対極に見えて、実際の所は相手に強い感情と執着を持つという、紙一重の位置にあるのかも知れないのだから。
 あの時も今と同じように、冷たい雨が降り続いていた。戦人は東屋の屋根の下から外へ片手を伸ばす。パタパタと落ちてくる柔らかな雫が、戦人の肌とスーツの袖口を僅かにしっとり濡らした。
 あの夜、あの雨の中で彼女に告げた言葉。
 愛していると。
 その重さも知らず、その意味も分からず、ただ苛ついた感情と共に告げた言葉。
 何故、あの日の自分はそれを言えたのだろうか。そう考えると、自ずと答えは見えてくる。
 その重さを知らなかったからこそ、その意味を分からなかったからこそ。だからこそ、あんなに簡単にその言葉を告げる事が出来たのだ。
 だから、おそらく今の戦人にはあの時と同じ言葉は口に出来ない。その言葉について考えてしまったから。その言葉の意味を分かってしまったから。
「“    ”だなんて、言えるかよ」
 雨の中へ突き出した手がぎゅっと拳を作る。
 吐き捨てるような戦人の声に、ベアトリーチェの睫毛がそっと震えた。返事をする事が出来なくとも、この彼女には確かに戦人の言葉が聞こえているのだ。今の言葉にベアトリーチェが何を思ったのか、戦人には分からない。
 不意に服の端を引っ張られる感覚を覚え、戦人が後ろを振り向く。
「ベアト……?」
 ベアトリーチェの細い指が、力なく戦人のスーツの裾を掴んでいた。何か伝えたい事があるのだろうか。戦人は軽く腰を落としてベアトリーチェの顔を覗きこむが、光の宿らない彼女の瞳からは何も読み取る事は出来ない。
 戦人は濡れていない方の手をそっと彼女の手に重ねた。凍りそうに冷たいその手を少しでも温める事の出来るように、優しく包みこむ。
「……なぁ。言えねぇよな? きっと俺たちは、永遠にそれを言う事は出来ない」
「…………」
 ベアトリーチェに同意を求めるように小さく呟く。彼女は何も答えない。
 言えない。言える筈が無い。気付いてしまったからこそ、分かってしまったからこそ。


 ――愛してるだなんて、とても言えない。


 相も変わらず、雨は一向に止む様子を見せない。黄金郷の主である魔女が、その心が泣き続けているのだと宣言するように。
 魔女の涙の代わりに降る銀色の雫は、いつまでもいつまでも止まないままだった。





作者:マナ