それは、親族会議から5日が過ぎた10月10日。
嵐こそないもののの、正午が過ぎてから降り止まぬ雨が島を覆い、
船は出せるという川畑船長に「海が荒れそうで危ない」と両親に伝えさせた朱志香は友達の家に泊まりに行っていて不在。
譲治との婚約を期に、花嫁修業をする為、絵羽の家に行っている紗音も不在。
紗音に付き添う熊沢も不在。
シフトの都合で、島に居る使用人は源次、郷田のみ。
午前に朱志香を乗せて出て行った船を最後に、島に入る手段はない。
つまりこの日、右代宮本邸に居る人数は、4人、ということになる。
だから、その夜。
10日から11日へと日が変わるその頃に、夏妃の部屋の内線電話が鳴り響いた時、
彼女は夫だと思った。
「はい」
「今すぐに、私の部屋に来い。蔵臼と一緒に」
しかし、そう言って切れた言葉は、2年前に聞いた、今はない人の声。
しばし呆然としていると、彼女の部屋を激しく叩く音と共に夫の声
蔵臼は、返事のない妻の扉を開け放つと、
電話を手に佇む彼女の腕をとると、焦りの隠せない表情で、告げる。
「今、お父さんから、電話がなかったか」
金蔵の書斎に向かう間、蔵臼は夏妃に、
源次から「お館様の部屋より、お二方をお連れするようにと電話が使用人室にあった」と告げられたと伝える。
階段を上がり、金蔵の部屋の前では呂ノ上がいつもの姿勢で二人を出迎えた。
「夜分遅くに申し訳ありません、奥様」
「お義父様からお電話があったというのは、どういうことです!?」
噛み付かんばかりに問う夏妃。
「当主の妻が、そう叫ぶな、夏妃」
それに答えたのは、呂ノ上ではなく、部屋の中からの声
「な、なにものです!どうやってその部屋に、お義父様の部屋に入ったのです!無礼者!」
オートロック式の部屋の鍵は、夏妃だけが持っている。
源次が蔵臼の寝室を訪れた際に、呂ノ上は部屋を開けていない。鍵を持っていないと確かに答えた。
では、一体、この声はの主は、どこから入ったのか?!
「入れ」
呆れたような、でも、どことなく楽しそうな声の部屋の主は、扉を開き、三人を招きいれる。
「お、とうさん?」「お義父様?」
そこには、マントを羽織り、くくっと喜色を浮かべている年若い白髪の青年がいた。
しかし、その顔は間違いなくアルバムや、経営者特集の雑誌に見ることができる若き日の右代宮金蔵。
「久しいな、源次」
「はい、お懐かしゅう顔でございます。お館様」
扉が閉じたのを確認すると、二人を椅子に座るよう促し、親しげに源次に話しかける。
「うむ。どうやら、我が愚息がなにやら頭を抱えておるようだし、
嵐が過ぎた後の薔薇の様子も気になったのでな、
あの世から舞い戻ってみたのだが、どうやら、ちょっとばかし若返りすぎたようだ」
手慣れた様子で、書棚の奥から酒瓶を取り出し、ワイングラスを並べる。
「あ、の」
「ん?どうした、夏妃。
もう我が身は滅びた、今更、健康の為には酒を控えろと言うのではあるまいな」
源次にワインを開けるよう命じると、向かいの席に着く。
「その」
「本当に、お父さん、なんですか?」
「・・・そうでなくば、なんだというのか」
言いよどむ夏妃に被さるように問うと、
先ほどまでの柔和な笑みを消し、晩年よく見せていた鋭い視線が、蔵臼を射抜く。
「お義父様は、どうやって、このお部屋に?」
喜んでいいのか、これは夢なのか、どういうことなのかと疑問符を浮かべた顔で問う夏妃
「なに、私はこの部屋で果てた死者。
葬儀も未だのうちは、ここに「い」ておかしくあるまい」
注がれたワインを片手に、またくしゃりと人好きする笑みを浮かべる。
くるくると変わる表情に、死者とは思えぬ温度のある声。
本当に父なのか?とも思えるが、先ほどの身を刺すような視線も、その仕草も、全てが父としか思えず
「私は、夢を見ているのでしょうか?」
想いはそのまま言葉として転がり出る。
「夢では、ございません」
それに答えたのは、源次だ。
「うむ。源次の言う通り。
私はこうして、お前たちと向かい合って、話をしている。
明日の朝、再びこの部屋に訪れた際には、消えている幻想であろうとも、
お前たちがここに居て、私が「い」ることは、夢ではない」
ワイングラスを空けると、テーブルに置き、椅子の背に身を預ける。
「幻想、ですか?」
夏妃の問いかけには、答えず、時計を指差す。
時計の針は、0時を過ぎ、静かに時を刻んでいる
「本日の正午に、この館は、姿を消す」
視線を戻すと、テーブルの上においたグラスのうち、
空になった物だけ、消えていた。
「それは、どういう・・・」
「言葉通りだ。
今から私は、不甲斐ないお前を叱り、島から出て行けと告げる」
感情の読めない目で、二人を見つめる。
「いい加減、眠らせよ」
生を終えながら、この地に縛られし魂に解放を
「お父さん」「お義父様」
己の経済状態の都合で、死した父を、敬愛する義父を、この地に縛り付けている事実を突きつけられる。
「お前たちも道連れに、というのでは目覚めが悪いからな。
いや、もう、目が覚めるということはないのであるが」
くくっと笑う
「さぁ、蔵臼、夏妃。何か聞きたいことはあるか?もっとも、時間はそう残ってはおるまい。
明日の朝、お前たちは、川畑の船に積めるだけの大切なものを乗せ、この地より去らねばならん。準備の時間は少ないぞ」
先ほどまでの、幼子のような無邪気な笑みでも、右代宮グループトップとしての鋭い眼差しでも、この世を去ったものとしての空虚な気配でもない。
愛おしい我が子を見守る父の目で、今まで一度も聞いたことのないほど温かい声で告げる。
その視線と声だけで、胸がいっぱいになって、何を言えばいいのか、わからない。
「ないのか?
ならば、この部屋より立ち去り」
「わ、私は、どうしたら、お父さんのように、なれるのでしょうか」
立ち上がる父を見上げ、当主として不甲斐ない己を恥じて、問う。
「なれん」
それを一刀両断する。
「お義、父様」
真っ白になる夫を支え、夏妃は、先ほどの温かな眼差しと返答との違いに困惑したような、夫への思いやりのない言葉への怒りのような、様々な感情が入り交じった顔を向ける。
「蔵臼」
声に、顔を上げると、父は、変わらず穏やかだった。
「お前は、お前のやり方でしか当主にはなれん。
私を真似る必要などない」
その目には、信頼があって
「で、すが」
だが、そんな信頼を向けられたこともなければ、
それに応える自信もない。
「己に足りないものがあるというのなら、その力を持つ者を雇え。
どんなに良い人間に見えても、盲信することなく、夏妃にその人間がどう見えるか問え」
それは、片翼の翼をもたない夏妃をも信頼しているという証
「蔵臼、夏妃。
右代宮を頼むぞ」
そんな言葉を、かけてくれる筈がないと思っていた。
そんな優しい眼差しを、向けてくれる日がくるなんて、想像してもみなかった。
二人は、もう、何も言葉を発することができない。
ただ、ただ、その期待に応えたくて、滲む視界のまま、強くうなずいた。
「源次。我が友よ。
さぁ、この二人の支度を手伝ってやれ。
私はもう眠りに就く」
二人の返答に、うなずきを返すと、
この世を名残惜しむかのように、雲に覆われた空を見上げ、出て行くように促した。
「蔵臼様、夏妃様。参りましょう」
「お、父さん」「お義父様」
触れることができるのかわからない、雨粒をつかもうと窓の外に手を伸ばす父に声かける
「ごめんなさい」
「ありがとう、ございます」
それが何に対するものなのか、わからぬまま、謝罪と礼を伝える。
父は背を向けたままだったけれど、拒絶は感じられなかった。
右代宮の翼は振り返らない
そうして、金蔵の部屋は、閉ざされた。
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